今年は

まだ10月前なのに、気分はもう大晦日くらいです。今年は一年が長い。長すぎるというか、いろいろありすぎて密度が濃すぎるから、まだ今年があるか、まだ平成も残っているか、という感じです。
芸能界的にもスポーツ界的にも気象庁的にも、世界の歴史的にも、個人的にも、記憶に残る節目みたいなことがありすぎて、本当にこんなに短い間に立て続けに起承転結の転や結が詰まっていると、これからどうゆう方向へ物語を回していくつもりなんだろうかと目が離せません。

それでまだ今年が終わったわけではないけど、今年の漢字一文字は『失』だとはっきり確信してしまった。

失なわれたものが多すぎる一年でした。(まだあと2ヶ月もあるけど。)
貴乃花イチローや安室ちゃん。彼等の世界は終わりではないし物語は続いていくけど、ひとつの時代としての幕引きになりました。
そこにあったひとつの大きな存在が消えて失われるということは、そこに残る人達は喪失感という手触りのあるものを抱えなくてはいけなくて、本当に失なってみないとわからないことがあるみたいです。

逆説的だけど、失なって、あるいは失うかもしれないと思わないとわからないことが失われて、その前にあった時間の全ての意味が変わるようなことが今年は沢山ありました。

最近の出来事でいうと、本屋さんが改装したことで文芸書も文庫本も前にあったスペースが大幅に無くなったし、雑誌と漫画以外の全ての本はみんな少しずつ無くなりました。
ひっそりと置かれていたソファーも2ヶ所とも無くなったし、そうゆう替わりに誰が買うんだろうっていう雑貨(ぬいぐるみとか小さいキャラクター消しゴムとか温泉の素みたいなやつ)のコーナーが出来たわけ。どこの誰が考えたのか知らないけど。

ソファーをいらないと考えた人が上にいる時点で、本屋さんの全部が見えてないような気がするけど、やっぱり確実にお客さんが減ってます。一見売り上げも取れないように見える奥まった静かなコーナープラスソファーって、無駄なように見えてとても必要なのにな。私は昔から本屋さんは隅から隅まで回るタイプで、奥まったところにある哲学とか宇宙とか宗教とか美術とかも一通り見て、難しそうな本の中にある読めそうな面白そうな本を見つけるのが好きでした。人口密度の少ない所にあるソファーも、コアな本好きには必要な場所で、週に何回も本屋を見に来るようなお客さんは毎回は買わないけど3回に一回くらいは買いたい本を見つけてレジまで持ってきてくれる人がいるんじゃないか。それで買わない時もソファーがあるゆえに自然と滞在時間が長くなって、その中で買いたい本に出会う可能性が増えると思うのです。

お店の売り上げをよくしたいなら、お客さんが本屋に来る回数や滞在時間を伸ばす方向へ持っていくのがいいし、店員の工夫で、ただ眺めてるだけじゃなくてその場で思わず買いたくなるような一推しを店のあらゆる所ですべきと思うけど、うちの店はなぜだか全然違う方向へ走っていっているみたいです。


私は社員じゃないし、最終的にはうちみたいな本屋さんが徐々に減っていっていることは自然な流れで仕方ないとも思うから、それよりは本好きの人達の世界を見ていると今までとは違う流れで人と本を繋げるような(ネットじゃなくて)動きが始まっているから、これからの出版業界や書店の在り方に懸念みたいなものはほとんどありません。
失われる痛みの中でしかわからないことがあって、そこを通過した後には今までに想像もできなかったような新しい光が待っていると思うから。でも失われたことをマイナスな角度から見ることに留まり続けているとその向こうにいけないから、ある場所では、失なった人や世界を『終わったモノ』として凍結させていることもあります。
それはそれでひとつの物語なんだなあと。

失なうことは終わりではなくその先も続いていくことなので、どうゆうふうに続けていくかで世界の道筋が真っ二つに別れてしまう。

つい先日最終回を向かえたばかりの朝ドラ(『半分、青い。』)がまさにそんなドラマで、今までの朝ドラはヒロインが一大事業を成し遂げたり、生涯に渡ってひとつの夢を追い続けたり(その中での紆余曲折や栄光と挫折みたいな)が多かったけど、半分青いの
ヒロインは夢を叶えてもそれを途中で諦めたり、新しい夢を次々に見つけて今までと全然違うことを凄い勢いで始めたり、
病気とか離婚とかあっても、それがマイナスの悲しみとして留まらせる理由にはならなくてグングン物語が前に進んでいくし。
話しの展開が早すぎるとか賛否が多かったみたいだけど、見ていてそうゆう現実のほうが本当は多いし、私達にはより希望をくれる物語なんじゃないかと思って見ていました。

批判してる人達のほうが非現実的な気がして、でも最終回を見た後に(いろんなものを沢山失なって失ないながらグングン前に進んでいった半分青いを後から思い出した時に)このドラマの意味みたいなものを、やっぱり逆説的に感じました。


貴乃花も今引退宣言をしてしまったけど、あの人は終わりにはならないと思います。あの性格ゆえの苦しさや困難はあるとは思うけど。。
相撲業界の一部から見たら終わりに見えるんだろうけど、本当の意味で終わるのは貴乃花じゃない。
多分終わる人は気付かないうちにそうなるものかもしれません。

10月の前に一年を振り返ったのは人生初だけど、今年は大きな意味がある年なので今の感覚を書いてみました。
また年末に書きます。

台風24号

台風一過で始まった10月です。
風がほんとに凄かったですね。みなさん被害などなかったでしょうか。
来る前から伊勢湾台風以上とか言われていたけど、あんまりイメージが湧かなくて、実際に大きな被害が起きることは想像していませんでした。

うちのアパートは幸い被害はなかったけど、少し高台にある妹の家は瓦が飛んで、外壁に穴があいてしまいました。
実家は、田舎で風が吹きさらしみたいになる立地なので、西風を諸に受けて、石垣の塀が歪んでしまったとか(見てないからどんなかわからない)あとベランダの屋根と車庫の屋根と瓦が10枚くらい飛んでいって、東側にあるお隣さんの車のバンパーに直撃してしまったみたいです…。。

調べたら、台風被害でそうゆう案件は多いらしくて、日頃から瓦の点検を行っていたかとか、車の持ち主も台風に備えて車を守るように何かしていたかとか、いろいろな条件があって保険のお金が決まるそうです。

父親のお兄さんが大工なので、朝イチで家を点検してくれて、修繕もこれから進めていくようです。

夜の間中物凄い風の音がしていて、妹と母親と3人でずっと連絡を取り合っていました。
二人とも、家の外で何か飛んでるみたいとか、プレハブとか車庫とかいろいろ心配をしていました。停電になったのはうちだけだけど、風の割には周囲で何か飛んでる様子もなく、窓が割れそうな気配もなく、ひたすら心配なのは実家の家でした。
吹きさらしだし、植木鉢とか果物の木とか沢山あるし、、それなのに雨戸を閉めておかない母親の行動も謎だし、とにかく心配が尽きないのです。
女3人でラインで安否確認しあって、聞くと妹の所のメンズ3人は熟睡中、父親も寝たらしく、横にいるさきちゃんもいつもと変わりなく眠っていました。

とても不思議な構図です。

良かったことはいくつかあって、うちは冷凍庫に大量の保冷剤が入っているので(焼津に魚を買いに行くので、その時用に沢山用意している)
夜11:00に停電して直ぐに、その保冷剤を冷蔵庫に移動させることができました。

おかげで昼の12:00まで冷蔵庫も冷凍庫も冷気が無くならなくて、食品に影響が出ませんでした。

もし停電が長引いたら困ったことになったと思うけど。。
今まで無駄に多すぎるかもと思っていた保冷剤が大活躍してくれたので、これからは更に保冷剤をストックさせていくつもりです。
焼津魚センターに行く度にくれるから、保冷剤の確保には困らないのです。


あとさきちゃんのシフトが奇跡の日勤だったこと。
大概遅番で帰りはいつも23:00くらいなのだけど、この日はシフト表が謎の日勤でした。朝9時に行って、夜8時前には帰れる。
日勤はこの一年で一回くらいしかなくて、月一でもらうシフトを見た時も、なんで日勤なのかわからないと言っていました。

結果的に遅番でなくて本当に良かったので、あらゆる方面に感謝したいです。


今回の台風で、備えをしておけばうちのアパートは割りと安全(立地的に)だと思ったので、過信はできないけど心配の方向性が定まりました。

実家の親達に避難してもらう場所として、いろいろ考えないといけない。
津浪も豪雨も強風も、多分相当な確率で、安全みたいです。

日本中どこにいても安全じゃないかもしれないけど、不安でしょうがないような場所は心配です。

これからは災害に備えて生きていかないといけないのだろうか。
辛い時代になったものです。

三年日記

本当は、2016年から書き始めたのだけど、2016年はほとんど空欄ばかりになってしまったので、2017年も一段目の1年目の欄に書いた。
昔退職祝い?でもらったウォーターマンの万年筆と10年以上ぶりに再会したので、最近は気分良く日記の一段目を埋めています。

2016年の日記には、SMAPのこととか、好きな雑誌の廃刊(実質上の)とか、大事な人との別れについてとか、読み返すとそういう1年だったのかなと思う喪失感ばかりが沢山書かれていました。

わたしはGREETwitterも含め、日記や呟きは全部自分の足跡や記録のつもりで書いているので、数年後とかに読み返すことが多いです。
今の自分との言葉のリズムの違いとか、今のわたしだと絶対書かないようなことを書いているのを見て、恥ずかしいけど書いてあるから比較もできて面白いなとも思う。

覚えているつもりでいても、その時に考えていたことや苦しんでいたのが何かとか、本当の細部は忘れてしまうから、写真よりもありがたい貴重な参考書類です。

ここ数年よく考えるのが、世界線とか、宇宙にあるいくつもの扉の中にある無数の部屋のこと。

自分だけのことを考えても、10年の中でいくつもの世界線を越えて、扉も開けて違う部屋に入ったり出たりした。
去年いた部屋と今年いた部屋は全然違う。
多分今年のわたしが去年のわたしに何かアドバイスしてもあまり冷静に聞いてもらえないと思う。


この10年でちょっとわかったことは、今の自分が考えたり感じたりして作っている今の世界は、そこまで強固な造りをしていないということ。
もしこの部屋を出たいと思ったら、特別なことをしなくても、ちゃんと出られるということを自分で思えたら出られる。

でも人間はというかこの宇宙全部が、いい変化よりも悪い変化に傾いてるみたいだから、いい変化には凄い抵抗が伴っていて、その抵抗でだいたいみんな部屋を出ることを諦めるみたい。
だから一番いいのは、根拠のない自信を一人で勝手に持ち続けること。

周りの意見や世間の流れは、ほぼ全部が抵抗勢力として向かってくるから、あまり気にしてはいけない。

今自分はまた違う部屋に行きたいけど、いつもリアルに苦しい抵抗勢力が表れるから、なかなか行けないように見える。


目指しているのは2020年。
バージョンアップして次に行こう。